国語の物語文はどう読む?原因と言動の論理から人物の心情を顕在化しよう!

【第12回】文章の読み方を知る「物語文と論理」
小池 陽慈先生

こんにちは。現代文講師の小池です。

前回は、説明文・論説文の読解について考察しました。

その中で、次の点を強調したのを覚えていますか。

筆者の主張と、その主張をどのような「すじ道」(=論理)で説明しようとしているのかを理解することで初めて、説明文・論説文は読めたことになる!

説明文・論説文の読解においては、やはり、「すじ道」(=論理)を意識して読むことが大切だということですね。

では、国語学習のもう一つの柱、すなわち「物語文の読解」においては、いったいどのようなことに注意すべきなのでしょうか。

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物語文の問題では何が問われるの?

皆さんは、小学生や中学生の頃に、国語のテストで、「傍線部におけるAさんの気持ちを答えなさい」などという問題に出会ったことがあるはずです。

それも、一度や二度ではなく、国語のテストで物語文が課題文となっている際には、おそらく毎回。

つまり、小・中学生における物語文の読解においては、〈登場人物の気持ち=心情〉を解釈させる問題が、最もオーソドックスな出題であるということですね。

大学受験においては、物語文という呼称は用いずに小説と呼ぶのが普通ですが、基本は同じだと考えてください。

もちろん大学入試の現代文では評論文がメインとはなりますが、それでもたとえば今年から始まった大学入学共通テストでは、評論文と同じ配点で小説が出題されましたし、国立の二次試験などで出題されることも珍しくはありません。

そしてなんと、大学受験における小説=物語文でも、〈登場人物の気持ち=心情〉を問う問題が、出題のかなりの割合を占めるのです。

大学入学共通テストの小説でも、第1日程、第2日程ともに、ほとんどの設問が、大なり小なり〈登場人物の気持ち=心情〉に関わる分析を求めていました。

つまり、

小中学生の段階から〈登場人物の気持ち=心情〉の解釈を訓練することは、大学受験の現代文対策に直結する!

ということなのです。

では、その〈登場人物の気持ち=心情〉の解釈は、いったいどのように実践していけばいいのか。

ここで、『自由自在』の力を借りてみたいと思います。講師として小中高生を指導し、かれこれ20年ほど経ちますが、その経験を踏まえてこの『自由自在』を読んでみると、本当に良質ですばらしい内容であることがわかります。ぜひとも、本棚に常に置いていただきたい一冊です。

なるほど。

まず、人の心情は行動に間接的に表される。だから、その理由・原因とあわせて考えれば、たとえ直接には描かれていなくとも、その人物の心情は類推することができる、ということですね。

そして、ここで挙げられているのは「心情が直接書かれていない」例ですが、仮にそれが書かれているとしても同じこと。

心情は、

〈原因 → 心情 → 行動〉

という構造の中で把握する、ということが大事なんです。

なお、ここでは「泣きくずれた」という行動が挙げられていますが、人が何かしらの心情を抱き、そこから発されるものは、行動だけとは限りません。

例えば、嬉しいという心情を抱けば「やったー!」と叫ぶように、登場人物の発する言葉もまた、心情を間接的に表していることがあります。

というわけで、ここから先は、〈原因 → 心情 → 行動〉の「行動」については、行動と言葉の両方をとって「言動」と表現したいと思います。

つまりは、

登場人物の心情は、〈原因 → 心情 → 言動〉の枠組みのなかで整理する!

ということですね。

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〈原因→心情→言動〉を実際に整理してみよう!

一例をあげましょう。
太宰治に『走れメロス』という傑作があります。
冒頭の一文、覚えていますか?

メロスは激怒した。

でしたよね。

そして、〈原因 → 心情 → 言動〉の枠組みを意識しながら読んでいる人は、この冒頭の一文について、「あ、メロスの心情が書いてある」とすぐに判断できる。

そうなると即座に、「なぜ怒っているのかな?」と「原因」に思いを馳せることができるでしょう。

すると、その心情の原因を探すために読むという明確な目的意識をもって、続く文章を追いかけることができるわけです。

歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当(あた)りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路(みち)で逢(あ)った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈(はず)だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺(ろうや)に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「王様は、人を殺します。」

そうした目的意識をもって読み進めた人は、ここまで辿り着くと、「なるほど! メロスは、王の悪逆非道を知って、それで『激怒した』のだな!」と理解できます。

すなわち、

〈原因=王の悪逆非道を知る → 心情=激怒〉

という展開を把握することができるわけです。

さらに、続く文章の中にこんな一節があります。

メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。

ここで「あ、メロスは怒りという心情ゆえ、王を非難するために王城にまで赴いたのだな!」とわかります。

こうして、

〈原因=王の悪逆非道を知る → 心情=激怒 → 言動=王を非難しに、王城に赴く〉

という〈原因 → 心情 → 言動〉の流れを整理することができるのです。

なお、なぜ心情を解釈する際に言動にまで着目する習慣をつけておくべきかと言えば、それは先ほど『自由自在』から引用した例でもわかるように、登場人物の心情は、『走れメロス』のようには明示されないことがしばしばあるからです。

その際は、原因と言動との絡みから、直接は書かれていない心情を類推する、という作業が求められる。そうであるなら、日ごろから言動にまで着目する読みを実践し、そうした思考回路を確立しておくことが大切になってくるはずです。

なお、このパターンにおける心情類推では、原因を正確に把握することがきわめて重要なポイントとなります。それは、同じ言動でも、原因が異なれば、そこから類推される心情もまた異なってくるからです。『自由自在』は、その点についても以下のように説明してくれています。

同じ「泣きくずれた」という言動であっても、先に引用した「友達の死を知って」という原因であったなら、そこから類推される心情は「悲しんでいる」というものになるはずです。

しかし、原因が「友達の無事を知って」なら、それとは正反対、「喜びの心情」を解釈しなくてはいけない。

このように、原因との絡みのなかで初めて、言動に間接的に表された心情を正確に類推することが可能となるのです。

ただ、念のために付け加えておくと、〈原因 → 心情 → 言動〉という枠組みは、つねにうまく機能するわけではありません。心情に該当する表現をきちんと言語化できないこともありますし、あるいは、言動は言動でも、心のなかでつぶやいたセリフである場合、それと心情との区別がつかないことなども、しばしばあるでしょう。

ですので、この枠組みは、〝がんじがらめの絶対的なルール〟というわけではなく、ある程度の「緩さ」をもって可能な範囲で把握できればよい、とお考えください。

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物語文には「論理」がない?

近年、とりわけ高校生の国語や大学受験の現代文をめぐり、ちょっと気になる言説をしばしば耳にします。それは何かと言えば、「論理的な文章」と「文学的な文章」を対比して捉える言い方のことなんですね。

もしこのような対比が正しい認識であったなら、「文学的文章」に属する物語文や小説は、論理性の乏しい文章ということになってしまいます。

でも、本当にそうなのでしょうか?

物語文や小説の読解において、「論理=言葉のすじ道、秩序だったつながり方」は、関係のないものなのでしょうか。

断言しますが、否!です。

むしろ、物語文や小説の読解においてこそ、読み手は、〝論理=言葉のすじ道、秩序だったつながり方〟を最大限に意識しなければなりません。

例えば本稿では、〈原因 → 心情 → 言動〉という枠組みで心情を整理する方法について説明しました。とりわけ、心情が直接的に明示されていないパターンにおいては、原因と言動との絡みから心情を類推する必要性があることを強調したわけです。

ここには〝論理=言葉のすじ道、秩序だったつながり方〟という観点は見られないでしょうか。

もちろん、そんなことはありません。

〈原因 → 心情 → 言動〉という枠組みをより詳細に分析するなら、

〈原因 → 結果としての心情〉、そして〈原因=心情 → 結果としての言動〉

という構造になっていることがわかります。

すなわち、心情が直接明示されておらず、原因と言動との絡みから心情を類推する、というパターンにおいては、次の2つの段階を確認することができるわけです。

①原因に着目し、結果としての心情を類推する
②結果としての言動から、その原因としての心情を類推する


いずれも〈因果関係〉という、論理における典型的なフレームで思考していることがわかりますよね。もちろん、〈対比〉や〈並立〉、あるいは〈言い換え〉等の論理も、物語文や小説の読解に要求されるものなのです。

ただし、物語文や小説においては、〈因果〉にせよ〈対比〉にせよ何にせよ、そうした論理構造が明示されないことが多いという点は注意してください。

たとえば先ほど分析した『走れメロス』ですが、

〈原因=王の悪逆非道を知る → 心情=激怒 → 言動=王を非難しに、王城に赴く〉

という展開について、これが説明文・論説文であったなら、

メロスは王の悪逆非道を知った。

    ↓ その結果

激怒した。

    ↓ したがって

王を非難しに、王城に赴いたのである。

など、「その結果」「したがって」等の〈つなぐ言葉〉によって論理的な関係性を明示する可能性が高いです。

なぜなら、説明文・論説文の筆者は、自分の思考のすじ道、すなわち論理を、読み手に納得してもらう必要があるからです。

しかし、文学はそうではない。

物語文や小説においては、必ずしも論理的な関係性を示す語句が明記されるとはかぎらないのです。

つまりそこに要求されるのは、

明記はされないが潜在する論理を、読み手が自分の力で顕在化する!

ということになるのですね。

『走れメロス』についての〈原因=王の悪逆非道を知る → 心情=激怒 → 言動=王を非難しに、王城に赴く〉という分析も、まさに、潜在的な論理を可視化する、というものであったわけです。

自分の力で論理を顕在化する。

これは考えようによっては、説明文・論説文の読解以上に、物語文や小説の読解においては、論理性を意識した読み方が大切になってくるということではないでしょうか。

物語文や小説の読解に、論理は関係ない?

いいえ、違います。

物語文や小説の読解においてこそ、論理的思考をフルに発揮しなければならないのです!

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おわりに

というわけで、12回に渡るこの連載も、今回でおしまいです。

ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。

最後に、小学生の保護者の皆さん、そして中学生の皆さん。

今、皆さんのお子様や皆さんが取り組んでいる国語学習は、誇張でも大袈裟でもなく、高校での国語学習、大学受験での現代文学習に直結するものばかりです。

この連載では、とにもかくにも、その点をご理解いただきたかった。少しでもご納得いただけたなら、書き手としてこれ以上の幸せはありません。

願わくは、皆さんの国語学習が、より実り多きものとならんことを。

では、これにて失礼いたします! 多謝深謝!

著者紹介

小池 陽慈


1975年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。早稲田大学大学院教育学研究科国語教育専攻修士課程中退。現在、大学受験予備校河合塾および河合塾マナビスに現代文講師として出講し、テキスト作成の全国プロジェクトも担当している。また、国語専科塾博耕房でも教鞭をとる。

単著に『無敵の現代文記述攻略メソッド』(かんき出版)『大学入学共通テスト国語[現代文]予想問題集』(KADOKAWA)『小池陽慈の 現代文読解が面白いほどできる基礎ドリル』(KADOKAWA)

共著に、紅野謙介編『どうする? どうなる? これからの「国語」教育』(幻戯書房)難波博孝監修『論理力ワークノート ネクスト』(第一学習社)

川崎昌平『マンガで学ぶ〈国語力〉 ―大学入試に役立つ〈読む・書く・考える〉力を鍛えよう―』(KADOKAWA)を監修。その他、執筆記事多数。


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